島津四兄弟末弟・島津家久の息子である島津豊久。その生まれから冷遇され続ける中、島津家のために一生を捧げた熱き武将。島津家の危機を救うクライマックスが胸を打つ一冊。
こんにちは!
歴史小説大好きななごむです!
本記事では、近衞龍春さんの「島津豊久 忠義の闘将」を紹介させていただきます。
あらすじ
関ヶ原の戦いで、もっとも人々の胸に刻まれた武将、その名は島津豊久。
慶長5年(1600年)、東軍優勢の関ヶ原の戦いで退路を断たれた島津勢は、絶体絶命の窮地にあった。もはや敵陣突破のみが最後の手段となった時、その先鋒に立つ男がいた。その武者の名は、島津中務大輔豊久。佐土原城主・島津家久の子として生まれ、元服前の13歳に沖田畷の戦いで初陣を飾った若武者は、島津を守るため、苛烈な戦場に身を置く運命を選ぶ。知られざる戦国の英傑の半生を描いた、著者渾身の長篇歴史小説。
「島津豊久 忠義の闘将」の見所
島津豊久の一生をしっかりと描く
本作品は、類稀なる軍才を持った島津家久の息子である島津豊久の一生を描いています。
龍造寺家を滅亡に追いやった「沖田畷の戦い」、九州統一を目前にしながらも夢潰えることとなった「九州平定戦」、明・朝鮮へ侵攻した「文禄・慶長の役」、そして「関ヶ原の戦い」。キーとなる合戦を中心にしつつ、幼少期から没するまでを500ページ以上に渡ってしっかりと描いているため、かなり読み応えがあります。
そもそも、「島津」といえば有名なのは島津四兄弟であり、長男の義久から、義弘・歳久・家久という4人は良く取り上げられることが多いです。一方で、末弟の家久の息子である豊久がメイン所に取り上げられることは少ないと思いますので、そういった意味でも貴重で真新しい作品です。
不遇の扱いを受けつつも島津本家を支える
作品の中でも随所に描かれているのが、家久・豊久親子の不遇っぷり。というのも、義久・義弘・歳久は正室から生まれたが、家久は側室から生まれたため、常に低い扱いを受けたと言われています。
父・家久は抜群の成績を誇りながらも、その格の低さより与えられる報酬は少なかった、ただし常に前線に送られるという過酷な扱いを受けて生き抜いてきました。
息子の豊久もその例に漏れず、正室腹から生まれた叔父たちの顔色を伺いつつ生きていくことを強いられます。
のちに豊臣秀吉によって一大名として取り上げられることになり、島津本家という一大名から分かれて、佐土原島津家として独立することになりますが、そうなっても常に島津本家のために尽くすという忠義が本作の見どころです。
晩年の豊臣秀吉の戦略として、一大名の優秀な家臣を引き抜くことにより、家中を割って力を削ぐというやり方を行なっていました。毛利家の小早川隆景や、伊達家の片倉景綱(これは断られたが)が例に挙げられます。
そんな戦略にも屈せず、一大名にありながらも常に島津本家に尽くすという姿が美しいです。
叔父・島津義弘との絆
若干18歳にして父・家久を失い、一大名としての振る舞いを強いられることになる豊久。
島津本家からの冷遇、いつ家を潰されるかという豊臣家からのプレッシャー、それらに耐えながら生き抜くことが出来たのは、叔父に当たる義弘の存在にあります。
勇猛で強いられる義弘からも認められ、中央政権との関わり方も義弘より伝授されていき、やがて父子のような関係になっていく豊久。若くして父を失い、本家からも冷遇される中、常に自分のことを気にかけてくれる叔父への気持ちは格別のものがあったことでしょう。
その気持ちは、クライマックスである関ヶ原の戦いの「島津の退き口」に繋がっていきます。
島津の退き口とは、関ヶ原の戦いで島津家が敵中突破を図った出来事の呼び名。劣勢の中、敵陣を中央突破し、退路を切り開いた島津家。数人ずつに分かれて追手を足止めし、主将である島津義弘を逃した。主将以外は全滅するほどの必死の戦法。
中央政権とのパイプもあり、その勇猛さも名高い義弘は島津本家になくてはならない存在でした。分家である豊久は、島津本家生き残りのため、義弘を逃すことを決意し、捨て身の足止めを行います。
自分を冷遇してきた島津本家ではあるが、本家があっての自分という意識から、義弘を逃すために自ら犠牲になる姿は胸を打ちます。
本の基本情報
作品名:島津豊久 忠義の闘将
著者:近衛龍春
出版社:角川文庫
発売日:2021/11/20
ページ数:544ページ
まとめ
近衛龍春さんの「島津豊久 忠義の闘将」を紹介させていただきました。
本記事もお読みいただき、ありがとうございました!
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